【書評】『バナッハ=タルスキのパラドックス 〜豆と太陽は同じ大きさ?〜』

バナッハ=タルスキの逆説 豆と太陽は同じ大きさ?

今年読んだ中で、最高に面白い科学の本。
というか、もはやこれを科学といっていいのだろうか。
なんたって、

【定理】豆をいくつかに分割して、並び替えると太陽の大きさにできる

なんていう主張を、カントールからバナッハ、ゲーデル、エルディッシュ(まさに20世紀の天才博物館!)を援用しながら、ガチで証明しちゃうんだから。
本書のテーマは有名な「バナッハ=タルスキーの定理」。
しかし、専門書じゃなくて、一般向けの書籍ででやっちゃうんだからスゴい。
(事前知識は高校生の数Ⅱぐらい?実数と有理数ぐらいを知ってれば十分)


詳しく書くには、このブログには十分な余白がないので辞めておくが、ポイントは2つ。
ひとつは「無限の性質」を巧妙に使っているところ。
もう一つは「選択公理」だ。

選択公理」って言うと、イカツイ印象を受けるが内容はシンプル。
というか、みんな無意識にやっている。

「アイドルグループ【A】【K】【B】【候補生】【N】【M】【B】【H】【K】・・・・とあるとき
人により好みは違うが、グループ内で自分にとって一番かわいい子が選べる」

※ただし、上で二度表れるB同士、K同士は別のグループとする

つまり、チームAは篠田麻里子だろ。
チームKは自明、ともちん。
チームBは・・・迷うが柏木由紀

みたいな感じで。

こんな「当たり前」なことが、数学の世界では「選択公理」という名前がつく大技。
この真偽をめぐり、50年ぐらい数学業界は大喧嘩していた。
それを、「まぁまぁ」と、なだめたのがフィールズ賞を受賞したコーエン。
そのあたりの歴史を概観できてしまう、読みものとしての魅力が本書の最大の特徴。


●なぜ、バナッハ=タルスキの定理が現実に応用されないのか?
これを使えば、あなたの金の玉をより大きな金の玉にできるのでは?
エネルギー問題も、食料問題もすべて解決するのではないのか?
残念ながらそれは実現できていない。
それは、この定理で示されるように、無限に細かくできる「魔法のナイフ」をまだ作れないからだ。

これを聞いて、現実的な方は思うかもしれない。
そもそもこの世界は有限、宇宙の原子を集めてもたったの10の80乗個しかないのに、無限なんて概念を考えるのは意味がない。



●では、このバナッハタルスキ定理は意味がないのか?

工学的にはそうかもしれないが、私はそうは思わない。
そんな「魔法のナイフ」が、人間には作れなくても自然界にないとは言い切れない。

それこそ、何もない「無」から宇宙を作ってしまった宇宙。
豆ひとつを大きくすることぐらいアサメシ前だろう。
そこに、バナッハタルスキ定理のアイデアが使われていないと誰が証明できよう?


●夢と科学の立場が逆転し始めている

かつて、数学・物理は人間の想像力を追いかける道具だった。
「空が飛べればいいのに」
「夜も明るければいいのに」
人間の想像力を埋め合わせるために使われたことを思い出す。

ところが、ここ100年ぐらいでその立場が逆転し始め
今は人間の想像力が追いついていない状況。

天才・藤子不二夫でもSF『ドラえもん』の中で描けたポケットは4次元。
しかし、私たちの住む世界の本当の姿は11次元以上であることを数学は示唆する。


マーク・トウェインがうまく伝えている。
「真実はフィクションよりも奇妙である。
なぜならフィクションは可能性をもっていなければならないからである。
しかし真実はそうではない」

言いえて妙。
まさに、宇宙は
「君、もっと現実的な提案をしてみたまえ」
というツッコミを無視して、好き勝手にストーリーを作れるのだから。


だけど、今後、人間にとって数学は想像力の推進物になるかもしれない。
「まぁ、黙ってついてきなよ。
君が見たことも、聞いたことも、食べたこともないような、面白いモノを見せてやるから」
ってな感じで。

勝ち目なき放射線との闘い『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
「たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる。
被曝した瞬間、大内の体は設計図を失ってしまったのだった。」



放射線は体に何をするのか?
20シーベルトもの放射線が体に及ぼすのかを克明に記録したドキュメント。


治療に挑んだのは、
東京大学病院の前川医師のチーム。
さらにアメリカ、フランス、ドイツ、ロシアからの専門家がバックアップ。

紛れもない、世界最高の医療。


しかし、彼らが直面したのは、

「現状維持」すら困難な “勝ち目のない戦い” だった。

政治家、技術者、現場。
原子力に関わる者、必読。

宝探しともドキュメンタリとも読める食のエッセイ『旅行者の朝食』

毎回毎回、米原万里の本を読むたびに「名著!」などと囃し立てるのも飽きた。
彼女の著作が素晴らしいのは最早は自明の理。
旅行者の朝食 (文春文庫)

賢哲ソクラテスとは逆の
「生きるために食べるのではなく、食べるために生きる」
と豪語する彼女の食に関わるエッセイ集。

読みゴタエのあるエッセイが二十余り収められているが、その中の一つに『トルコ蜜飴の版図』というのがある。

読みながら溢れる涎を禁じえない。
これでもかと華麗な筆致で料理を語るのがセオリーなのだろうが、そんな平凡な手段を彼女は選ばない。

たかが「飴」についてのエッセイを読んでるはずが、犯人を追い詰めていく推理小説のようなスリル。
究極のお菓子『トルコ蜜飴』を追い求める、一つの冒険活劇ともドキュメンタリとも云える完成度。

飽くなき美食家によるエッセイの白眉ともいうべき一編。
この20ページだけでも500円を払う価値がある。

もっとも美しい言葉の本『日々の風景』

日々の風景 [ 野呂希一 ]
『日々の風景』を開く。
空が、海が、山が、野が、朝日が、夕日が、月が、緑が、青が、赤が・・・
この日本の全てが輝き始める。
セピア色の世界から1677万色True Colorの世界へと誘われたかのように。

きどったところのない、なにげない一冊。
この国に現れる日々の風景、その風景を捉えた言霊をただただ紹介した本。

たかが一つの言葉。
されど幾世を経て変わらぬ趣をたたえてきたからこそ、言葉という結晶になった一つの景色。

意識に留まるものには名前がある。
そんな当たり前のことを再確認させられる。
そしてあらゆるものに目を向け慈しんできた日本人の繊細な感性に驚かされる。

タイムトラベルの古典『夏への扉』

夏への扉 (ハヤカワ文庫 SF (345))
時間移動を表現したSFの古典、らしいが・・・。

昨夏に読んだ『星を継ぐもの』の感動が忘れられずに、時々SFを手に取っている。

仕事、恋人、全てを失い、この時代への未練を無くした主人公。
裏切りから狂った人生を修正すべく、冷凍睡眠を利用し未来へ。

30年後の世界に突如として身を置いた場合の浦島効果がどのように主人公に訪れるかを描いた描写は精緻でリアル。
自分を裏切った恋人の三十年後の変わりようには、主人公同様に怒りを忘れて哀れを感じる。

『星を継ぐもの』ほどScientificさはないものの気軽にSFファンタジーを楽しみたいならオススメ。

書く技術についての本は多かれど、ノンフィクションの書き方についての好著は稀有『調べる技術・書く技術』

調べる技術・書く技術 (講談社現代新書 1940)
あるテーマを設定し、それについて調べ、人に話を聞き、最後にまとめる技術を紹介するのが、本書のねらいである。
書き始めに7,8割の力を注げと断言する著者。そしてこれが本書の書き始めである。
大学の先生やらエッセイストやらコンサルやらの「書く技術」系の本は読んできたが、ノンフィクションライターの手による本書は一風変わっていた。
そして一番オモシロカッタ。

『調べる技術・書く技術』と称するだけあって、調べることの難しさ、大切さ、そして面白さにじわっとページを割いている。
それもそのはず、頭の中に既に書くべき何かしらがあって、それを紙面上で整える小説家やら大学の先生やらとは違って、ノンフィクションライターが書くべきものはどこまでいっても自分の外にしかないからだ。

したがって本書は、いわゆる「書き方についてのハウツー本」とは一線を画す。
著者がノンフィクションを書くに当たり、苦戦を強いられた取材、書くことの葛藤、そして下を巻くような名文との出会いのうちに体得していった智恵。
まさに本書そのものが一冊のノンフィクションになっている、そこに本書の面白さがある。

そして、本書はその先へと広がるノンフィクション作品群への優れたガイドブックにもなっている。ノンフィクション作品群への旅立ち、それ即ちこの世界の現実を見つめる旅となる。

無駄を描く、無駄を活かす、それが志賀直哉が「小説の天才」たる所以『暗夜行路』

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫) 暗夜行路〈後篇〉 (岩波文庫)
普通、物語には無駄がない。
関係ないと思われた序盤の事件が後半に効いてきたり、ミステリーの謎を解く鍵であったりと精密に組み立てられた論理がある。
ところが、我々が生きる生はどうか。
一年前の出来事と、今の自分との間に明確な因果関係を見出せる人がどれほど居るだろう。そう、人生とは何気なく、意識せずとも、ただただ無為に流れていくものなのだ。
しかし、それは即座に無意味であるとはいえない。

あなたが今もし人生を焦っているとしたら、それは高校時代の怠惰な日々の所為かも知れない。 あなたが誠実であろうとすることを心に命じるのは、最早わすれつつあるいつぞやの放蕩の日々がその影にはあるかもしれない。

過去は明確に意識の留まる処とならずとも、黄昏時の影のように忍び寄りながら、あなたの行動論理を支配している。その流れに身を委ね、素直に筆を落としたのが『暗夜行路』。

泣き処で泣かせようとし、山場で読者のボルテージを上げようとする。それは安易な方法だ。
志賀直哉はそれを安易にはしない。
何もない無駄な日々がひたすら続く、それを主人公と同じペースで追体験せねばならない。そうするうちに、訪れた尾道の美しさに心打たれる準備ができる。その後の「結局は何も解決していないんだ」という虚無感に襲われる準備ができる。

「小説を読むことは、一つの体験である。」この言葉が最も似つかわしい。